突然ですが,歴史というのはある意味とても妥協的な学問です。えーっと,しょっぱなから語弊をまねきそうなんですが,私はそうとらえているということで。業界(どんな世界だ)の一般的な意見とかではありません。
たいていの学問というわれているものにはつきものなのだろうけど,特に歴史関係のものに関して顕著なのは「ある命題を証明するための証拠はすでに失われていて,決して確実な答えは得ることができない」かもしれないという,なんていうか非常に達観した前提です。たとえば,私のやっているようなこと,ある絵が何年に制作されたかというのは,はっきりいって「わかることもあるし,わからないこともある」。たとえば,教会に保存されている古い支払い文書なんかに目を通して,たまたま運が良く,ある絵に関する支払いが記録されていたりしたら,もしかしたらある絵が制作された年がわかるかもしれない。しかしまぁ,実際はそういった文書は失われてしまっていて,わからないことのほうが多いわけです。
じゃあそういう非常に悲観的な状況のなか,どうやって前に進んでいくかというのが問題になるのだけど,このあたりが非常に妥協的だなとおもうところです。まずはある事象を説明するために,ある仮説を立てる。別の事項を説明するために,別の仮説をたてる。また別のものを説明するために,別の仮説をたてる。この作業をずっと繰り返していって,できるだけ多くのことを矛盾なく説明できるような仮説の体系を築いていきます。しかし実際にはそんなにうまくいくことはなくって,どこかで個々の仮説の間に矛盾がでたりして,その体系がうまく機能しなくなてしまう。
どうしてそうなるのか,というのは簡単で,仮説というのにはどこかに間違いが含まれているからです。そうしたら既存の体系に組み込まれた無数の仮説の一部をいじってあげて,全体の矛盾が少しでも軽減するようにつくりかえてあげる。
なんだか抽象的な話になってしまったので,ひとつ例をだしましょう。たとえばある絵の右下の隅に「1602」という数字が描かれていたとします。まぁたとえば,手始めにこの数字を「作品が制作された年」だとする仮説を立ててみましょう。絵を見ないでこの話だけを聞けば,まぁこれがもっともな解釈です。「非常に信頼性の高い」仮説だと言ってもいいでしょう。じゃあその数字が書き込まれた絵が,
この絵だったとしたらどうですか?(実際には書かれていませんよ。絵の作者は
この人です)こうなると話が変わってきます。この絵が1602年に制作された,という仮説は無数にある他の仮説と矛盾するのです。17世紀の初頭に,もしこういった画風で描かれた風景画が存在したとすれば,それはもうとてもスキャンダラスで,いままでこの学問が築いてきた全ての仮説体系を一から見直さなければなりません。もちろん,そういう可能性だってまったくないとは言えない。しかしそうするよりも,問題の数字に関して別の仮説を立ててあげたほうが,全体を無理なく説明できる。たとえば,「この数字は2月16日を意味している(ある種の地域では日付を先に書きます)」だとか,「この数字は画家が書き込んだものではなく,あとから第三者が捏造したもの」だとか,あとは「『1902』という数字の書き損じで『1602』となった」とかのほうが,(どれもところどころに不自然なところがありますが)全体としての仮説の体系を矛盾のより少ないものに保つことができるわけです。
* くりかえしますけど,上の話は全部てきとうにでっちあげたものです。まぁ,この種の話自体はよくありますけど。
もうちょっと卑近な例をだしましょう。今日は何曜日ですか?いまはこちらは,0時41分なので,月曜日になって少したったところですね。一応パソコンの時計にもそう表示されています。でもどうして火曜日じゃないんですか?もしかしたらパソコンの時計は狂っているかもしれないし,日めくりのカレンダーは一日間違えてめくってしまったのかもしれないし,昨日の朝刊の日付だって誤植だったのかもしれない。しかしまぁ,そういうふうに考えるよりは,「火曜日だと思っていたのは自分の勘違いで,本当は月曜日だった」という仮説をたてるほうが,全体を無理なく説明できるわけです。
とくになにを言いたいというわけでもないけれど,まぁなんとなく書いてみました。こんなことはなんていうか,もう言い古されていて目新しいことなんてないと思いますが。しかし一時期はやっていた,「だから唯一の正解だなんてないのだから,適当なことを華々しく言っておけ」みたいな風潮が最近やっと下火になってきたのは(そうじゃないかもしれませんが,そうなっていることを願います)なんていうか個人的には住みよい世界になってきたなと。○ル○チャ○○・ス○○ィ○ズとか結構鬼門な人間なのです(いつもより伏字がサービスです)。えっと,全部が全部そうだというわけじゃないんですが,他の仮説との整合性とを考えずに,閉じた環境のなかでのひたすらに美しい仮説の構築のみを目指すとかって,なかなかそこまで達観することはできません。もっとなんていうか,いろいろなものが絡み合った非常にどろどろとした世界が好みなのです。
2004/06/28 (Mon.) 00:46:27
posted by mm at 07:44| 静岡

|
Comment(3)
|
TrackBack(0)
|
つれづれ
|

|