2004年07月13日

都合の悪いことはすぐに追記にする

州都に来ています。いまは帰りの電車に乗りました。ちょっとしたメールを書こうとおもって,パソコンを立ち上げたのだけど,となりのおばさんが興味深そうにディスプレイを覗き込んでいるので,イタリア語でプライベートなメールを書くのは気が引けて,日記を書くことにしています。

イタリアは3,4日前にひさしぶりに雨がふって,その後は過ごしやすい日が続いています。こちらの夏は湿度がそれほどないので,気温が少しさがっただけでだいぶ感じ方が違います。それにしてもこの時期のフィ○ンツェは外国語で満ちています。さっきも,この電車はPis.に行くの?とアメリカ人とおぼしき女の子にたずれました。こちらではイタリア人・外国人にかかわらず,道をたずねるとかの,ちょっとした質問はよくされます。たしかに,わからなくても適当に答えるイタリア人に聞くよりはよっぽど確実な気もします。外国人からしてみればとくに,確実にイタリア人ではないとわかる日本人というのは,道を尋ねるのにお得な存在なのかもしれません。


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2004年06月15日

no-title

どうして人を殺してはいけないか,という疑問がでてくることは(変な言い方ですが)歓迎すべきことでしょうね。社会的常識として暗黙の了解として認められていたことを問い直すことができる,というのは自分の属するもの自体を客体化して捕らえられるという能力のひとつです。

「この質問が出てくることがおかしい」というのはいまいち前近代的な支配者意識(とそれに支配されている側の被支配者意識)の名残で,それはそれで社会秩序の維持なんかには便利かもしれないんですが,それをさも絶対的価値観として捉えるのって,「王様の権力は神様からさずかったものだから,それは絶対なんだ」といってるのと次元としてはあまりかわらない(しかし,近代以前でもこの概念はたびたび議論の対象となっている。このあたりのことは『王の二つの身体』という本がおもしろいです)。王様やらなんやらという絶対的権力の存在というのを認めないその手の政治的システムにおいては,すべての価値観を相対化した上で,ひとつひとつ構築しなおしていく必要があるわけです。まぁこのあたりは国によっては(ヨーロッパの人たちなんかもわりと),宗教という別の絶対的価値観にたよって解決したりもしてますけど。

j-tentenさんからいただいたコメントへのお返事が長くなりましたので,日記として切り出しました。コメントとトラックバック,どうもありがとうございます。
2004/06/15 (Tue.) 11:25:46
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2004年06月14日

どうして人を殺してはいけないか?

今日は朝から学校のネットワークが動きません。大学関係は妙にインフラが整っている割には,不調なときが多いというのは日本と同じです。日曜の朝からずっと,仕事ばかりしているのも気が滅入るので,日記でも書いています。

最近,ネット上で「どうして人を殺してはいけないか?」という話題を良く見かけます。これについて考えたことなど。

先の疑問文の答えとしてまっさきに思いつくのは,「法律で禁じられているから」。この方向をとると,問題は「法律で禁じられているのか?」というものに置き換わります。そして法律で禁じられていない殺人もある。地域や時代によっても違うけれど,いまならば戦争と堕胎などですかね。警察官の職務上,というのもありますが。この方向で考えていくとしたら,まずはこの例外を解決しなければならない。(しかし,戦争というのを規定しているのは,どんな法律だろう。国際法?)

もうひとつ思いつく答えとしては,「殺された人の関係者(家族)などが悲しむ。自分がされていやなことは,他人にしてはいけない」という相互的なもの。この場合も上で言う戦争などの問題は解決されていない。もちろん,「戦争というのは本当は悪いことなんだ(現状が間違っている)」ということは可能です。この場合は,法律を説明原理として使っているわけではないので,その法律自体の妥当性を問うことが可能になります。しかしこの答えだって不十分なもので,「なぜ食べるために動物を殺してもいいの?」というような疑問に答えることが必要になってきます。

上にあげた非常に「純真な」答えというのは,それ自体では説明しきれない部分もあるけれど,この問題を考える上のスタート地点としては悪くない。「どうして人を殺してはいけないか?」という問題に答えるために,「人を殺すことが容認されている場合がある」現状や,「人間以外なら(必要に応じて)殺しても良い」というこれはおそらく普遍的な原則などを説明する必要なわけです。ちなみに,後者に関しては動物愛護の人とかからみたらある種の異論はあるかもしれないけど,ライオンだって必要に応じてシマウマを殺すわけです。


とここまで書いて,長くなったのでいったん放置。続きはあるやらないやら。これから仕事にもどります。
2004/06/13 (Sun.) 11:02:33

Yuugata ni natte mo, network ga kaifuku shinai node, gakkou no pasokon kara koushin shite mimasi. Umaku dekiru ka na?
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2004年06月08日

いまさらながらの輸入版CD

輸入版CDに関する規制に関して,Webを見て勉強しました。付け焼刃の勉強なのですが私なりにヘンだな,と思うことは次のふたつでしょうか。あまり問題の全般的な姿を捉えたものとはいえませんので,興味のある方はいろいろと他のサイトを検索してみたりしてください。

1. この法律改正によって,誰が得をするのかが見えてこない。結局は音楽市場全体の縮小再生産になってしまうような気がします。もともとの問題の発端になった邦楽の逆輸入というのは,若干国内のレコード会社(といまも言うのかな)が得することはあるかもしれませんが,市場としてはわずかなものでしょうからこれを現時点で著作権法を改訂してまで是正する必要というのがあまり見えてきませんし,長い目で見ればマイナスのほうが多いような気がします。しかしこの複雑なシステムから最後に採算が取れる,と踏んでいる方面が存在するのかな。

2. どうしてこの問題を著作権法の一部として扱うのか。この問題に関しては,どう見てもいろいろな経済関連方面(へんないい方ですが)の思惑で進んでいるように感じます。著作権法というものじたい,もともとは(いまもそうですが)創作活動をしている人の権利を守ることで文化の発展を促すというもののはずですが,正規版の逆輸入禁止というのはまったくそれとは関係ないように思えます。正規版である以上,著作権者には正当な収入が入るのでしょうから。こういったある種一時的な問題を,原則として別のものを志向している著作権法ということで固定してしまうと,のちのち不具合がでてきそうな気がするのですが。国内の産業保護という目的を達成するためなら,むしろ輸入規制なりなんなりで対処する問題ではないかなと。

私はこういった法律関係の問題については,それほど「厳密な」考えを持っているわけではく,むしろ「どうしたら結果としてよくなるのか」という方面から考えているのだけど,そういった見方からはこの2点がとくに「?」です。保護されるべきものが保護されず,かといって誰も得をするわけではない,という不思議な現象のように感じます。

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Tarachkaさんからいただいたコメントに自分なりに考えたものです。ちょっと長くなって,コメントのお返事からずれるようなところもあるので,別に日記にすることにしました。
2004/06/08 (Tue.) 00:39:59
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2004年06月02日

著作権と思い入れ

あるニュースサイトに,「Winnyの衝撃(5) 匿名ネットと著作権 京都の文化財、デジタル化で標的に」という記事がある。この記事そのものは Yahoo のニュースで知っていたけど,Winny 関係で連載されていたというのは知らなかった。最初見たときは便乗記事もいいところだな,と思っていただけだけど(Winny のものとは問題の質が異なることと,著作権の解釈がかなりいいかげんなあたりがとくに),「2ちゃんねる、著作権を侵害中?」という記事をTarachkaさんのページで知って,ちょっとおもしろくなりそう,という感じで書いてみる。

現行の著作権法の解釈としては,おおもとになっている2チャンネルの主張は非常にまっとう。すでに作者の著作権が切れている絵画作品の写真複製に関して,著作権が問題になるとすれば,写真を撮った側(写真家とか出版社とか)に著作権というものが認められるかという点に限られるのだけど,創造物じゃないんで認められない,というのがいまのところの解釈みたいですね。絵画みたいなものでも写真をうまくとるというのには,かなりの技術が必要なのだけど,とりあえず現状ではそこには創作性は認められていないと。これに関してはなにか判例とかはないか,ちょっと気になるところですが,法律関係はあたまがいたくなるので,次に行きましょう。

ここらへんまでは良く知られた話。こういう点に注意を払わず,安易に「著作権侵害」みたいなことを言っちゃう新聞記事はちょっとあれですが,複製からの複製というのは実を言うとこれは結構デリケートな問題です。

美術をやっている人,というのはわりとこの辺りのことに気を使っていて,複製からの複製を自分の出版記事に載せるようなときも,わりともとの複製を持っている人だとか,あとはもとのオリジナルを持っている人に許可をとったりしています。これはさっきもいったけど,「著作権」という話の範疇からはすでにはみ出ています。じゃあなんでか,というのはすごく簡単で,あとで面倒になるのがいやなわけです。あいつのところはウチの作品の写真を無許可で載せやがったから,これからは作品の写真を撮らせてあーげない,とかいうふうにヘソを曲げられてしまうと困るからです。なかには上の2チャンネルにあったような議論を理解していない所有者のだっています(とってもいます)。そういう現実的な次元でのデリケートさがあります。まぁただ,許可をとるうんぬんに関しては割と場合によりけりで,小さな写真を載せるときは「鑑賞を目的としたものではなく,著作権法で認められている引用の範囲」というような感じで誰か知らないけど誰かを納得させて(たぶん自分だと思います),無許可で載せてしまったりすることもあるので,かなりいいかげんなんですが。

ところで,今日の日記で取り上げたような話題で問題となるのは,現行の法律で解決できる範囲と,慣習に沿った考え方の間に差がある,ということですね。絵の所有者としては,それは自分が所有して,なおかつ少なくはないお金をかけて管理しているわけですから,それを勝手に使われたりしたら気分がよくないわけです。ソースにしたニュース記事だと,写真をとっている会社はそれ自体にかなりの費用をかけているし,あとは所有者側に使用料もはらっているかもしれないから,やっぱり気分はよくない。そこでなんだか知らないけど最近Winnyの事件とかでよく話題になってるからとりあえず使っておけという感じで「著作権侵害」とかと騒いで見るというのも万年進歩が見られないなかなかなかなか愛らしいのですが,まぁこれはたしかに問題にはなりますよね。一番困るのは,最初にも言ったけど複製させてくれなくなってしまうということです。「一度複製されてしまったら,あとはどうなるかわからない。じゃあこの作品は絶対に複製させないようにしとこう」とかなったらもう人類の損失ものですよ?アウラなんてとっとと消えてなくなれっ,ってかんじ〜。そんなもんおフランスのオセンチなロマンチシズムが生み出したたかだか100年程度の概念になにかかずらってるん?そんなもんいまどきもちだしてどうするんですかおヂさん?(すいません,オイタがすぎました)これに関しては他にもいいたいことは山ほどありますが,先生にしかられる前にこのあたりでとめておきます。

話が脱線しましがが,まぁもとにもどしましょう。この乖離をどうするか,というので考えられるのは2つの方向性があります。

1. 「慣習に沿った考え方」を「法律」に近づける
2. 「法律」を「慣習に沿った考え方」に近づける

もちろん,この中間もあるし(それが一番現実的ですが)とりあえず,この2つだけ考えておきましょう。(あとは「3. とりあえずあいまいなままにほおっておく」という方法もありましたか)

1.はあれです,「複製自体には著作権なんて生じないんだから,コピーしたければご自由にどうぞ」と所有者(など)が思ってくれるようになることです。難しいですかね。難しいですね。仮に著作権,というものの性質が周知されたとしても,やっぱり気分が悪いものは気分が悪いでしょう。こういうのって,生まれついたときからの考え方が染み付いちゃってますから,世代が変わらない限りむりですね。金持ちほど強欲だし

2.は簡単。所有者(など)が満足するように法律を変えてやる,あるいは法律の解釈を変えてやる。たとえば,著作権法に「絵画の複製には創造性は認めがたいが,そこに必要とされる労力などを考慮し,例外的に著作物として認める」なんていう条項が加われば,喜ばしい状況とはいえないけど,一応はすっきりとする。そうでなければ別の法律,著作権法というのから離れて,「ある物の所有者に対して,複製などに関し一定の権利を認める」というような法律を作れば(あるいは現行の法律からそのように解釈する)これもまぁ解決。これはもしかしたら,現状でも事例があるのかしらん。あとは書籍なんかを袋詰めにして「この書籍を開封する場合,以下の条項に同意したものとみなされます。1. 本作品に掲載されている図版には著作権は存在しませんが,ともかくなんでもいいから複製は禁止します。…」みたいな感じかな。最後のは現行の書籍にも似たことが書いてあるけど,いまの段階ではその効力に関してはかなり疑問があるし。(このあたりに関しては,なんか判例とかもありそうだけど)

ちょっと長くなってきたので,私自身がどうするのがいいか,という部分については割合するけれど,こういう著作権に関する矛盾って,けっこういたるところにコロコロしています。たとえばたいていのニュースサイトでは,「引用・転載禁止」と書いてあると思うんだけど,「著作権法で認められている正当な引用まで禁止することは可能なのか?」っていうのもそうです。かなり疑問じゃないかと思います。まぁこのあたりは,「著作権」という考え方自体が古い,とかいう議論もありそうで,なんていうかまだしばらくはごちゃごちゃしそうです。法律関係に無知なところをさらしておいてところで,だれかそういう方面から解説してくれるひとはいないかな〜
2004/06/02 (Wed.) 15:41:31

アウラの消滅のくだりはタカツムリさんの「アウラの消滅って何ですか?」が若干念頭にありますが,反論とかそういうものではないのであしからず。こんなことを書かなくても,ちゃんと両方の記事を読めば「話題は共通しているがまったく別の問題を扱っている」,ということは明らかだと思いますが念のために加えておきます。
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2004年05月26日

付記

前回のネタフリたかつむりさん答えてもらってしまいました。どうもありがとう。

ネタをふっておいてあれなのですが,明日は州都にでかけて一日留守にします。午前中に Bartolome. di Giovann. の展覧会を見て,午後は文書館で作業する予定です。疲れ果てて帰ってくるだろうから,はたして更新できるかな。それではみなさん,おやすみなさい。
2004/05/25 (Tue.) 23:32:43
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2004年05月25日

美術の置かれる場所

前回の日記に kira さんからいただいたコメントがおもしろかったので,それをもとにちょっと考えてみる。部分的に引用させていただくと:
絵画として展示するからには作者の求める光度の環境に置かなくては意味がないのではないかとふと思ったのですが・・・(略)むしろ"ディスプレイ"という"光源"をキャンバスにするwebアートの可能性って、これからすごく高まっていくんじゃないかと素人ながら考えたのですが、どうでしょう?
こういう観点から「光源」をキャンバスにする,というアイデアはおもしろいと思いますが,そうすると今度は,その「光源」であるディスプレイをどこにおくか,あるいはディスプレイの輝度・大きさは,というような問題がでてきて,どうどうめぐりになってしまうような気もします。そういう方向で進めていくと,結局はインスタレーション(作品だけでなくて,それが置かれる(インストールされる)場所も含めての作品)とかに行き着くのだと思います。現代美術ばかりでなくて古い美術でも,現在美術館にある作品の大部分は薄暗い教会の礼拝堂からはがされてきたもので,そういった意味では作者の意図(という言葉に代表される注文主の意図,あるいは時代が前提とするもの)は時には徹底的に,破壊的にまで無視されています。もともとの作者の意図,というのは古文書の解読などから部分的に可能であったりもするのですが,時代が変われば認知の枠組みはいやおうなくかわるので,失われてしまう部分というのも大きいと思います。たとえば現代美術のある作品を,500年前の世界に持っていったらまず間違いなくガラクタです。歴史を知っている,という点に関してアドヴァンテージを持っているとはいえ,それと逆のことだってもちろん起こりうる。こういったことが歴史の学問分野でも問題にされるようになったことの一因には,最初に書いた現代美術の発想も大きいのだと思います。

ところで,最近の美術のことにはずいぶん長い間ごぶさたしているので,制作をしている方から見るとまた別の意見もあるかもしれません。さりげなくたかつむりさんにリンクをはっておきましょう。

翻訳はちょうどおりよく,16世紀の美術評論家が15世紀の画家をどのように捕らえていたかというくだりです。
2004/05/25 (Tue.) 09:50:23

kiraさんのBlog
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2004年05月22日

さえぎる,さえぎられる

イタリア語でなにかしらの原稿を書いた後は,この日記にもう何度かでているGiovann.に添削を頼むことが多いのだけど彼女とは一度,かなり険悪な関係になったことがある。

彼女にこういうことを頼むようになったきっかけは,私がこちらについたばかりのころに行っていた外国人学生・研究者向けのイタリア語講座の講師を彼女がやっていたからなのだけど,その関係で私が割りと率直に(というか単にやんわりと言うことができなかっただけなのですが)彼女を批判したことが原因。

いま行っている学校は小さなところだから,外国人向けの講座というのは1レベルしかない。あと講師とかも,博士課程を終えてはいるけどまだ論文は出していない学生にさせている。それが Giovann.だったのだけど,やっぱり専門に語学教授を勉強したわけではないからいろいろと不手際なところがある。それは仕方がないのだけど,あるとき,これはちょっとまずいと思うことがあって口をだした。

そのまずい,というのはイタリア人にとってみればごく普通なことなのだけど,他人が話している最中に言葉をかぶせるということ。これは別に相手の話を聞いていないとかいうことではなく(いやそれもあるかもしれないけど),もうイタリアでの会話というのは普通にそうです。というよりは,母国語話者同士なら,どの国でもそういった傾向はあるかな。

でもそれを言葉のたどたどしい外国人に,しかも語学の授業でやってしまうと,事情はかなりかわってくる。私はイタリアに来る前には,語学はかなり勉強してきたからよかったのだけど,そうでない人の場合それをやられただけでもう話そうという意欲がなくなってしまう。一生懸命話そうとして,頭の中で文章を組み立てて,やっと口にだそうとしたら,そこに相手が言葉をかぶせてくる。これは彼女にしてみればなにか悪気があるというわけではなく,むしろ言葉につまっている相手を助けてあげようという親切心からだったのだけど。

そんなふうにして,特にイタリア語とは構造の違う言語を母国語にしているアジア圏やゲルマン系の人たちが,やる気をくじかれて授業からぼろぼろと落ちていってしまったのだけど,あるときちょっと目に余るのがあった。そのときは授業の一環として,彼女が生徒の一人,ドイツ人の数学者 Mar.に質問したのだけど,その質問の意味がつかめなかった。それで Giovann.は親切のつもりで,同じ質問をいろいろな形で,それこそ機関銃のように次々と繰り出していったのだけど,聞かれたほうは次から次にわからない言葉が出てくるのでかえって混乱してしまい,最後には「そう,どうせぼくは馬鹿だからわかんないんだ」と言い出すくらいになってしまった。

それがきっかけで後で Giovann.に,これまで書いたようなことを伝えたのです。彼女としてはほんとうに,親切でやっているということはわかるのだけど,それが裏目にばかり出ている。彼女はイタリア文学をやっているイタリア人で,自発的に外国語というのを学習したことはなく,その点,未知の言語の学習においてどういったところで躓きやすいかというのにはほとんど何も知らなくって。もちろん,そういうことを自然に身につける人というのもいるのだけど。

そのときに彼女に伝えたことは,少なくとも語学の授業では,相手がなにかしゃべろうとしているときにはそれを待ってあげることが必要だということ,語学を学ぼうとしている人の意欲をそぐようなことは決してしてはいけないということ。実際にはもっと手厳しいことも言って,それでかなり険悪,というか Giovann.はこれまで一生懸命やっていたぶんショックを受けてしまって,私もちょっときつく言い過ぎたのであとであやまったりもしたのだけど。そして Mar.は翌週から授業に来るのをやめてしまって,いまでは食堂で会っても英語で話している。

しかしそんなことを言われたあとでも,添削を快く引き受けてくれる彼女には感謝するばかりなのですが。
2004/05/22 (Sat.) 15:51:32

Tarachka さんの「流す」の記事を読んで書いたものです。
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主語と動詞と田中君と佐藤さん

La conclusione, prima di tutto」(Albero4 さん:題名の意味は「先に結論ありき」)にトラックバック。もとになっているのは,「先に結論ありき」(J-tenten さん)の記事。外国語(ヨーロパ系言語)と静岡弁の関係(?)が話題になっているのだけど,なにを隠そう(というほどではないけど)わたしも静岡出身。この日記の天気がたまに静岡なのはそういうことです(それにしても静岡県民率がずいぶん高いような)。しかも,一番槍玉にあがっている(今はなき) Citta dell'Acqua Pura 出身だったりするのだけど,訛りについてはいままであまり気づかなかったな。それとも,シチリア出身の Giovann.と一緒で自分では気づかないまま静岡弁まるだしてしゃべっているのかも。ありそうなのがこわい。しかしそのわりには,イタリア語の会話はちっともうまくなっていない,というのはイタリア語というよりはむしろ,会話の能力そのものに問題がある気もしなくはなく。

今日の晩御飯はちょっとしたわけでルーマニア人2人ととる事になった。その席で,日本語の主語と動詞の関係の話になったのだけど,日本語のように「主語が明示されず」かつ「主語による動詞の変化がない」というのは,彼らにはかなり珍しいものとして写るらしい。イタリア語やルーマニア語など古代のラテン語に端を発するロマンス系の言語では(フランス語とかは大分変性してしまっているのでこれから話すことと食い違いがある),主語によって動詞の語尾が変化します。だからわざわざ,英語のように I とか You を明示しなくても主語がなんであるかわかるわけです。例えばイタリア語だと,愛するという意味の動詞の amare は主語によって amo, ami, ama, amiamo, amate, amano と変化する(一人称から三人称,そしてその複数という順番です)。だから,主語はかなり頻繁に省略されるけれど,それはむしろ,動詞の活用に主語が吸収されたと考えるべきものであって,コンテキストに依存する日本語の主語とは明確に区別する必要があります。

そして日本語の人称代名詞のいろいろ,わたし,ぼく,おれ,みたいなもののニュアンスも説明して,これにはかなり苦労する。きみ,は同世代の男性に言うのは OK だけど,女性にはダメ,しかし年下にだったらありえる。君というのは皇族につける尊称ではないのか?みたいな思わぬ突込みも入りたじたじ。それを説明しながら気づいたのだけど,(現在の)日本語は目上の人に対する2人称代名詞をかなり決定的に欠いている。もちろん,「あなたはどう思いますか,先生?」みたいな文をつくることは可能だけど,これはかなり不自然にひびくし,へたをすれば失礼にとられかねない。「貴兄はどう思われるか?」って時代劇じゃないんだし,「あなた様はどう思いますか?」というのは慇懃無礼ここにきわまれり,という感じだ。通常の文は「先生はどう思いますか?」でしょう。目上ではない相手の場合の,「君はどう思う?」というのは,実際に会話のなかで聞いたらちょっと違和感はあるけど許容範囲。もっと普通には,「どう思う?」とか,せいぜい「田中君はどう思う?」なのだけど。

こう考えていくと,現代の会話における日本語って,主語という概念では説明できない現象が多い。たとえば,なにかを説明するときには「私はこれこれのように思います」というよりは,「私としては,これこれのように思います」のほうが自然に響く。前者は(ヨーロッパ言語的な)主語を使っているのに対して,後者では,まず「私に関してのことをこれから話します」といういわばコンテキスト作りを行って,その後,主語のない文章を提示しその主体については聞き手側にコンテキストから類推することを期待している。一見このふたつは同じようにも見えるかもしれないけど,例えば,「私の考えでは,佐藤さんはこれこれのように主張しています」という例文をあげると違いがはっきりするかな。なんか落としどころがなくなってきたあたりで,きょうはおやすみなさい。
2004/05/22 (Sat.) 02:03:08
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2004年05月21日

マニュアル教育

千葉の県立高入試で“難問” 受験生の半数0点 道案内の作文、選択肢に混乱
転載はだめらしいので要約:千葉県の県立高校で正答率はわずか14%。しかも約半数46%が0点正答率の非常に悪い問題があった。問題内容は,「地図を見ながら公民館までおじいさんを道案内,散歩の途中おじいさんに出会ったとの想定で、公民館までの道を尋ねられ、急な上り坂のあるAの道か、平らなBの道を選び道案内を作文で書かせる;まずおじいさんがどのような様子なのか一つ仮定し,「急いでいるようだ」「体力がなさそう」「とても元気そう」「時間の余裕がありそう」の4つの選択肢から、1つ選ぶ;あなたが、そのおじいさんにどのような配慮をしているのかがわかるようにする。」
こういうことがあると,また型にはまったことしかできない教育うんぬん,とかいうことがでてくるのかもしれないな,とかつれづれと。正確な問題文がわからないとなんとも言えないけど,14%という正答率が示すものは,この問題は受験生の能力をはかるものさしとしてはあまり良い問題ではない。もちろん,この高校が一掴みの能力のある人間をほしがっている,というのなら別だけど。

個性<>パターン,というような2極を想定してその間に非互換性を想定するようなそれこそパターンにはまった議論は別として,個人的には義務教育の間とかはむしろ決まりきったパターンをきっちりとこなせる教育をしてほしいなあ。日本で電車が3分おきにきっちり来るとか,マクドナルドの店員がちゃんとマニュアル通りに挨拶をするとか(それができない国もあるのです),そういうのって教えられたパターンを踏んだ手続きができるようにしてきた教育のおかげという面も大きいと思うんですけどね。うえで引用した出題とは関係ないけど,ゆとり教育とか,個性とか,うーんなんていうか「ゆとりがなくて個性がない」という大人側からの押し付けな気もします。個性を教育によって伸ばそう,という考え方自体がすでにパターンにはまっているような。しかし今日みたいな一見社会派なタイトルをつけると,見にきてがっかりするひとがいそうで申し訳ない。

いつもよんでいる「ちりんの部屋」の「040521 教育での結果主義の弊害」で知った話題ですが,とくにリンク先への反論とかというわけではありませんのであしからず。途中から問題がすりかわってるし。
2004/05/21 (Fri.) 14:31:16

Seesaa が反応しないので,またあとでアップロードしよう。
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2004年04月29日

非社会派の年金疑問

年金の支払いというのは「自分の老後のため」の権利を得るためにしているのか,「他人の老後のため」の義務として払っているのか,法律的に厳密なところは知らないけど,「どうせ年金なんて払っても自分の老後にはもらうことはできないんでしょ」という主張が公には認められていないところを見ると,少なくとも建前上は「他人の老後」,つまりは現時点での年金受給者のために払っているのだろう。もしそうじゃなかったら,「どうせもらえないんだから…」というのは支払い拒否の立派な理由になるはず。

でも,現状のシステムだと「若い頃に年金を払っていなかったら年金を貰えない,あるいは減額される」ということになっている。これはまぁ,一種のペナルティとしては有効なのだろうけど,「他人の老後」のために年金の支払いをしている,という原則に矛盾しているような気がする。もしも「他人の老後」のために年金の支払いをしているのなら,そのような例外(というにはあまりに頻繁だが)は認めずに,取立てを徹底してやる,というのが一貫した姿勢だとおもう。脱税を認めないのと同じで。

しかしそんなことをするんだったら,それこそ税金ってしちゃえばいいのに。なんのために,「年金」という別枠を設けてお金を集めてるのかよくわからない。「社会福祉税」とかいって強制的に集めちゃったほうがわかりやすいし,いろいろな費用も節約できるだろう。しかし現状の年金支払いシステムをそういった税金に移行すると,収入・消費などに関わらず,成人に対して一律に同額徴収することになる(たぶん)唯一の税金になるわけだ。経済状況によって免除とかは別として,ホームレスでもトヨタの社長でも一律同額を払うことになる。まあいまでもそうだけど。

これはなにかに似てるな,というのは言うまでもなく,いにしえの人頭税ですかね。なんか語感がすごいぞ。なんてことをこれまたいにしえの税金文書をめくりながら考えていました。私の扱ってるとこだと,直接税というと「固定資産税」と「人頭税」の2本立てですね。なかには「キアラは去年婚約したが,結婚のための持参金が用意できなくてまだ家にいる,お目こぼしを」とかいう涙なくしては読めないような申告もあります。ところで税金議論はイタリアでも爆発中,この一年で2回,全国一斉ストライキをやってます(職種に関わらず全部とまる)。と最後に関係のない話題をいくつか振って,お茶を濁しますです。
posted by mm at 21:20| ローマ ????| Comment(0) | TrackBack(0) | ちょっと考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月27日

一番不思議なのはどうしてそんな首相を選んだのかということ

日本人の人質問題は解決したが,イタリア人の人質はいまだに拘束中。4人がつかまり,うち1人はすでに殺害されている。そして残り3人の開放条件として人質グループが要求してきたのが,「イタリア国民が政府に対して,撤兵要求のデモを行うこと」。

ちょっとこの件について,イタリア側の反応がどうなっているのかというのを新聞各紙の一面でざっとチェックしてきたが,どの新聞もあまり明確な意見は出していない(出せていない)。それはそうだろうと思う。

La Stampa という新聞の一面はこの事件をうまく表現している:「人質集団はまず,イタリア政府をアメリカから引き離そうと画策し,それが失敗した現在はイタリア民衆を政府から引き離そうとしている」。アメリカから,というのはもちろん,日本に対して行ったのと同じように,イタリアに撤兵を求めたことだ。

イタリアの首相(大統領もいるが,実際の権力は首相に集中している)に対する評価というのは非常に偏ったものがある。基本的には知識人階級は,現在の首相を忌み嫌っている(なのになぜ彼が首相を続けていられるかというのが疑問である)。少なくとも私の周囲で彼のことを評価している人は「ひとりも」いない。
posted by mm at 16:58| ローマ ????| Comment(2) | TrackBack(0) | ちょっと考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イタリアの大学制度:ジョヴァンナはもうすこし肩の力を抜いて生きたほうがいいとおもうという余計なお世話

ゼミのあとはジョヴァンナにあって,発表用原稿のイタリア語で疑問に思っている箇所を確認する。世間話などもしつつ,彼女は博論の提出まじかということで,そちらの話などもする。イタリアの場合は,卒業論文などもそうだが,厳密な提出時期というのは定められていないので,直前といってもそれほど殺気立ったところはない。

イタリアの卒業論文といえば認められるのが難しいのでかつては有名で,卒業できるのは大学の登録者の3分の1以下だった。日本のような卒業式とかそういったものは基本的にはなく,必要な単位を取得して論文が受けいれられた時点で実質的に卒業となり,その時点で「博士」になる。難関なだけあってこれは一種のステータスシンボルとなり,大学を卒業した人というのは周囲からは(ファーストネームで呼び合う仲でなければ)「博士」の称号をつけて呼ばれ,名刺などにもその単語を刷り込む。卒業論文を提出できなかった大多数はどうするかといえば,だらだらと大学生活を続け,そのうちにフェードアウトしていく。

このあたりの話が全て過去形なのは,数年前にあった大学改革で,この原則が大幅にくずれつつあるからだ。以前は日本と同じ4年生だった学部課程が3年と2年とに分割された。最初の3年は日本の感覚でいうと教養課程に近いかもしれない。といってもこの時点から専門のマテリアルをこなしていき,日本のように専門とまったく関係のない学科が義務となることはほとんどない。実際にイタリアに来て驚くことのひとつは,文系学生の科学的知識の欠如だ。実際に中学卒業(日本より1年早い)の時点で文系高校・理系高校と別れ(それ以外に語学高校・教員養成高校,あとは職業学校というのがあるらしいが,知り合いにいないので実態はわからない),文系を選択した場合は以後理系の科目に触れることはほとんどなくなる。Analfabetismo scentifico(科学的文盲)という言葉も良く聞くし,それを実生活で感じる場面は多々ある。そのためか理系の学生と文系の学生というのは,(それなりのまじめな学生なら)持っている雰囲気がかなり違い少し話をすれば大抵区別はつく(大抵は話す前に区別がつく)。

大学での最初の3年の課程を終えた後,次の2年はさらに専門が分化される。そのコースはイタリア語では Laurea Specializzata と呼ばれ,日本語に訳すと「専門卒業課程」となる。

そしてそのような形式的な違いよりもより一層重要なのは,この制度化においては学生の大部分を卒業させることを目的とされている。建前上どうかは別として,実際に卒業をする学生はかなり増大していることは間違いない。つまり,日本の「卒業」と感覚としては大分近くなる。今日話をしたジョヴァンナは,旧制度で卒業を終えた最後の世代なのだが,このことに関してはかなり批判的だった。これがイタリア人一般の感覚なのか,彼女個人的なものなのかはわからない。私の周囲には批判的な人が多いが,これは環境の特殊さによるところも大きいかもしれないので,その点に関しては判断を留保したほうがよいかもしれない。

2004/04/26 (Mon.) 22:25:09
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2004年04月25日

発表準備:パワーポイント,IrfanView:最近 Gif 画像の特許ってどうなったのかな。

次の発表はなれないイタリア語なので,文字情報で内容を補えるようにと,パワーポイントを使うことにする。いまの分野はだいたい,こちら方面ではかなり遅れていて,たいていはポジフィルムを使った35ミリのスライドが使われる。もちろんこれは,コンピューターの画面を投影するよりはるかに高い解像度が得られるため,それはそれで利点もあるのだが,写真の羅列になってしまうので,かなりしゃべりをうまくやらないと,複雑な話をする際にはついてこれなくなってしまう。パワーポイントを使った発表を見れば,少なくとも文字で書いてある部分はわかるだろうから,まぁ実際のところどうなのかは別としてなにかわかった「気」にはなれる。
いままではどうしていたかというと,面倒なときは写真だけですましたが,理解してほしい(理解した気になってもらいたい)学会の発表などは部分的に,パワーポイントで作ったスライドを印刷し,それを35ミリのポジフィルムに撮るという非常に原始的なことをやっていた。これは解像度うんぬんということよりも,会場での設備に心配がない(35ミリポジスライドの投影装置2台は普通はある)からということのほうが大きい。今回はすでに確認済みなのでそれはよい。
そしてあえてパワーポイントにした理由のもうひとつは,もうそろそろ物理的なポジを使ったスライドの整理というのが追いつかなくなってきたからだ。今回も以前そうしてとりためておいたポジを再利用しようと思っていたが,大部分は実家においてきてしまって結局のところはまたスキャナでとりなおしたり,デジカメでとりなおしたりした。第一,それが手元にあったとしても,雑然とほうりこんである箱から探し出す自信はない。そこを精密に整理するほどの細かさはない。というよりかは,物理的になにを基準にソートするか,という問題が生じる。これは実写の写真整理にもいえることで,デジカメを購入してからはもうこちらだけですべて用をすませるようになってしまった。
しかしパワーポイントというのは,画像をはりつけていくとものすごい大きさになる。全体の3分の1ほどの時点で30メガバイト。もちろん,直接データを埋め込まずにリンク情報だけを利用すればそのようなことはないだろうが,これは将来的にファイルを移動したときなどのことを考えるとあまり気が進まない。まぁスライド作成の準備をしている最中はだましだましやればよいとしても,実際に使う際にメモリが足りなくなったりして動作が不安定になるのはまずい。その解決策として考えているのはいまのところ,個々のスライド全体を個別の画像ファイル(もしくはメタファイル)に書き出して,それを IrfanView という画像閲覧ソフトを利用して一連のスライドにするという方法だ。Irfan View というソフトはフリーなのだけど,個人的に非常に安心感を持っているのでこれでできるというのは精神衛生上よい。パワーポイント特有のアニメーションや,マーカーでリアルタイムで印をつけるといったことはできないが,今回はそれを利用する予定はない。また,設備の問題でスライドの操作はだれか別の人に頼むことになるため,それほど複雑なこともできないだろう(そして幸いなことに,その必要もない)。今回はこれで乗り切るけれど,もしほかになにか良い方法があれば,教えていただければうれしいです。

IrfanView
IrfanView 日本語版

ところで,一時期前にはやった Gif の特許の件は最近はどうなったのだろう。
I have no special GIF-LZW license, LZW is not patented in Austria ...
つまり、GIF-LZWの特許権はIrfan氏のいるオーストリアには及ばないそうで、普通に使用しても大丈夫だそうです。

という説明が日本語版の FAQ のページにあったが。それを日本で使用するのには少し問題もあるのではないかという気もしなくはない(といってもいまは日本にはいないが)。とくにボランティア(だろう)でこのソフトの日本語版を配布されていらっしゃる楠本氏などは大丈夫なのだろうかと,余計な心配までしてしまう。しかしこの方面に関する私の知識は,3年前からなんの進歩もないので,今はまた状況は変わっているのかもしれない。亀の甲羅の縁に位置するこんな辺鄙な Web ページでも,このソフトで Gif 画像を閲覧したことはいままでに一度もないしこれからもない,と断り書きをつけておいたほうがよいのだろうか。しかしそれとは全く関係なく,このようなソフトの作者の方々にはいろいろな意味で頭がさがるばかりである。
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日記の機能;ご当地チェック:なまり

何年か前まではプロバイダーからもらえる自分のスペースを使って日記を書いていたりしたのだけど,それに比べる日記システムというのは楽だ。HTML自体をしこしこ手書きするのは全く苦痛ではなかったのだけど,更新するたびにリンクを書き換えたり,ある程度ログがたまったら別ファイルにするだとか,そういう手間がないのは日記を書くというのに対する気を楽にしてくれる。あまり良い言い方ではないけど,片手間に書けそう。
Blog,というカテゴリに属する固有の性質,コメントやらトラックバックとか,つまり読者側が残せる痕跡というのがどういった影響があるかというのはよくわからないけど,それはそれで楽しみでもある。といっても,話題は限りなくマイナなので,あまり活躍の出番はなさそうだ。
スタイルシートなんかの設定も,昔とったなんとかで(世代を感じさせる言い方だ)少しだけ変えてみた。いまのところは特に不満は見つからないけど,タイムゾーンは変えられないのかな,とかその程度かな。その点は,一番最後に現地時間を手動で入れて(といってもそういうソフトを使ってだけど)解決する。

ご当地チェックというのをみる(タグは普通に入れればいいんだろうか)。生まれてから高校まで住んでいた土地は,なんていうか,非常に思い当たることがあり,いたたまれないものがあります。特にいままでの「自分になまりはない」,という思い込みがみごとに粉砕されました。しかし誰しも自分のなまりとういのは,語彙の面では別としても,アクセントに関しては気づかないものなのかもしれない。イタリア語をなおしてもらっているジョヴァンナも,自分では標準的なイタリア語をしゃべっているつもりらしいが,「あんたシチリアなまりまるだしじゃん!」と突っ込みたいところです。というか一度突っ込んだら,かなり憤慨し(文学博士のプライドにさわったらしい)ていたので,この話題は以降自主規制しています。さて,これからごはんです。
2004/04/24 (Sat.) 19:45:17
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2004年04月24日

遠くて遠い国:いったいルーマニアってどこにあるの?

もうじき東欧諸国がごそっとEUに入るらしい。前から知っていたしニュースとしても流れていることだろうけど,東欧諸国といえば「らしい」というくらいの感覚しかない。昨日だかルーマニア人と話をして,このあたりのことを聞いたのだが,とにかく大変そうだ。彼によればいまのルーマニアでは大卒給与が100ユーロくらい,ってもちろん月ですよ。それでとにかく生活はできる物価水準なのだが,EUにはいったら物価は当然あがるだろうけど,一方で給料がそれに準じてあがるとも思えない。イタリアなんかはいい例で,EU以後のインフレはすごいものがあるが,給料は大してかわってなさそうに見える。このあたりはなにか確たるソースがあるわけではなく,たんにイタリア人の話を総合しているだけだけど。まぁ,旅行者物価(ホテルなど)は2年前のガイドブックと比べると,のきなみ1.5倍なのはたしかです。
イタリアの場合,西欧のなかでは遅れているとはいえ,それでも給与水準なんかはフランス,ドイツなんかと比べても1.5倍から2倍くらいでおさまっていただろうからいいけど,東欧諸国はほんと大丈夫なんだろうか。だって,月1万円で生活できちゃうわけですよ。いまのところは。
とはいえこの件に関しては,前述のルーマニア人は意外にも楽観的でした。彼の予想によると:1)物価は確実にあがる,たぶん平均すれば5倍くらいじゃない?;2)給与もそこそこにあがる。でも2倍くらい。ということだ。
これだけ聞くと非常に悲惨な生活がまっていそうだが,そうではないらしい。というのも,物価の上昇は「平均すれば」5倍,ということでおそらく食品などの生活必需品はほとんどかわらないだろうという予想が(彼のなかでは)あるからだ。つまりはこういうこと:
1)いまあるルーマニア人がいて月額100ユーロの給与があり,生活必需品に80ユーロ使っている。そうするとそれ以外の余剰分は20ユーロ;
2)EU加盟後に給与2倍になり,200ユーロになる。生活必需品に関する支出はかわらず,80ユーロのまま。そうすると余剰分は120ユーロ;
3)平均した物価が5倍になっていると,この120ユーロで買えるものは,以前の物価に換算すると24ユーロ分。
で,結果としていくぶん生活は豊かになるんじゃないか,という予想です。夕食の席での会話なんで,いいかげんなものですが,それよりももっと信用がおけないのは,このルーマニア人が数学者ということだ。
2004/04/24 (Sat.) 14:10:24
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