絵画として展示するからには作者の求める光度の環境に置かなくては意味がないのではないかとふと思ったのですが・・・(略)むしろ"ディスプレイ"という"光源"をキャンバスにするwebアートの可能性って、これからすごく高まっていくんじゃないかと素人ながら考えたのですが、どうでしょう?こういう観点から「光源」をキャンバスにする,というアイデアはおもしろいと思いますが,そうすると今度は,その「光源」であるディスプレイをどこにおくか,あるいはディスプレイの輝度・大きさは,というような問題がでてきて,どうどうめぐりになってしまうような気もします。そういう方向で進めていくと,結局はインスタレーション(作品だけでなくて,それが置かれる(インストールされる)場所も含めての作品)とかに行き着くのだと思います。現代美術ばかりでなくて古い美術でも,現在美術館にある作品の大部分は薄暗い教会の礼拝堂からはがされてきたもので,そういった意味では作者の意図(という言葉に代表される注文主の意図,あるいは時代が前提とするもの)は時には徹底的に,破壊的にまで無視されています。もともとの作者の意図,というのは古文書の解読などから部分的に可能であったりもするのですが,時代が変われば認知の枠組みはいやおうなくかわるので,失われてしまう部分というのも大きいと思います。たとえば現代美術のある作品を,500年前の世界に持っていったらまず間違いなくガラクタです。歴史を知っている,という点に関してアドヴァンテージを持っているとはいえ,それと逆のことだってもちろん起こりうる。こういったことが歴史の学問分野でも問題にされるようになったことの一因には,最初に書いた現代美術の発想も大きいのだと思います。
ところで,最近の美術のことにはずいぶん長い間ごぶさたしているので,制作をしている方から見るとまた別の意見もあるかもしれません。さりげなくたかつむりさんにリンクをはっておきましょう。
翻訳はちょうどおりよく,16世紀の美術評論家が15世紀の画家をどのように捕らえていたかというくだりです。
2004/05/25 (Tue.) 09:50:23
kiraさんのBlog



ただ、「色要素を追求」したと解説されている作品に陰がかかっていたんです。で、その陰をかぶった部分の色彩は、明らかに作者の意図したものじゃなかったんだろうなと思ったので・・・(-_-;)。
そう考えたとき、色を追求するような抽象芸術の一表現としてウェブアート、というかPCモニタっていけるんじゃないかと。発光しているわけなので、(少なくともキャンバス上は)周囲の影響を受けにくい・・・、と書いたところで思った。直接光には弱いですね、ディスプレイ・・・。
ただデジタルデータの場合、色彩が油彩などとちがって劣化していくことはないわけで、そういった意味では色要素のの抽象芸術なんかには向いているのではないでしょーか。
具象画や、抽象芸術分野でも構成に重きを置いたものなんかではまた話はかわると思うのですが・・・。話が変わる、というか通常のキャンバスのもののほうが私は好き。
などなど、宇都宮美術館でヘリット・トーマス・リートフェルト展みた後、常設展示の作品見ながら考えたのです。
えーとえーと、私のところにリンクしてあってドキドキしております。でも、こういう話は好きです。ありがとうございます。私も作品を置く環境というのは大切だと思います。これについて長くなっちゃったので、トラックバックさせていただきました。ではでは〜。